真実の愛と聞いて、なにを想像しましたか?
真実という言葉は 「嘘・偽りがない」という意味だけではなく「究極のもの」という意味でもあります。あなたが愛している人へ注いでいる愛、それは嘘や偽りがなく真実で究極の愛ですか?「偽っているつもりはないし、出来る限りのことはしているつもりだけど、真実で究極の愛かと言われたら・・・」という声が聞こえてきそうです。
どんなものが真実の愛と言えるのでしょう。そして愛は与えるだけのもので、愛は求めるものではないのでしょうか?今回は「真実の愛」についてお話します。
愛し方を考える
人を愛する、そこには当然「愛」があります。
「愛」には実体がないので、愛の持ち主の思想により形状・性質を変えます。その思想にそって2つに分けることができます。
- 利他性の愛:利他、というのは、自分を犠牲にしてでも他人の利益を図ることをいいます。
- 利己性の愛:利己、というのは、自分一人だけの利益を計ることをいいます。
パッとみると、利他性の人は、自分よりも他人を優先する「良い人」で、利己性の人は「自分勝手で横柄な人」のイメージを持ちやすいですよね。
利他性・利己性を一つの例を参考にして考えてみましょう。
利他性の愛と利己性の愛
例えばここに、過度にしすぎたダイエットで明らかに体調を崩しかけている一人のダイエット女子がいます。この女子に友達二人がそれぞれ声をかけます。さて、どちらが利他的でどちらが利己的な言葉でしょうか。
①「もういい加減やめなさいよ!痩せたからって彼氏なんか出来ないってば!あんたのためを思って言ってやってんのよ!」
②「今日も食べないんだ・・・頑張ってるね。」
①は自分の感情や感覚を友達に押し付けているように見えますが、「利他的」なのです。声を荒げて自分が周りから「なにごとだ?」と思われてもいい、この友達の異常な行動を今すぐ止めさせよう!という「自分を犠牲にしてでも他人の利益を図ること」を実践したわけです。
②は、ダイエットを続けたいという本人の意思を尊重したことで「他人の利益を図った」と思われがちですが、「頑張ってるんだから邪魔しちゃ悪いよね。」という自分の感情を優先しました。なので、これは「利己的」になります。
愛し方には種類がある
ここでは、「愛し方」に論点を置いているので、どちらの行動が正しい・正しくないではありません。どちらも正しい愛し方であり、その示し方が違うのです。
一人は、「何よりも友達の健康」を考えましたし、もう一人は「何よりも友達の意思を尊重」しました。そうです、どちらも「真実の愛」を示しました。
このダイエット女子が、友達それぞれに「ありがとう、こんなに心配してくれてたんだね」とか「ありがとう、気持ち分かってくれて」と感じることが出来たのであれば、二人とも「真実の愛(友情)」を伝えることができたといえます。
愛され方を考える
愛するばかりの立場を考えてしまいますが、愛は「ギブ&テイク」です。
見返りを求めるという意味ではありません。愛される側も「真実の愛され方」を知っておく必要があります。真実の愛され方をしらない場合、例に挙げたダイエット女子の友達は、単なる「おせっかい」と単なる「つめたい」人になってしまいますよね。
それでは次に、愛される側を2つのタイプに分けてみます。
依存タイプ
- 「幸せ」とは他人にしてもらうもの
- 彼氏がいれば・結婚すれば幸せになれる
- 私が~なのは、周りの環境が悪かったから
自立タイプ
- ありのままの自分を見せたり、悩みを打ち明けることはしない
- 感情をあまり見せない
- なにかあれば自分の責任だと思ってしまう
- 甘えることが出来ない
愛され方にも種類がある
このタイプそれぞれに愛情100%が差し出されました。どちらが「愛情」を多く受け取るでしょうか?どちらも100%の「愛情の量」は受け取るでしょう。しかし「100%比重の愛」を同じような比率で受け取るでしょうか。真実の愛の受け取り方、は”「真実の愛」の受け取り方”ではなく、”愛の「真実の受け取り方」”と考えるのが正しいと思います。
両者の関係が、物理的に障害だらけのものであっても、この受け渡しさえスムーズに出来ていれば、この愛情関係は「満足できる」ということになります。
素直になることが大事!
ここまでで、「真実の愛」は発信者も受信者側も正しい方法があるということが分かったと思います。なかなか素直になれないまま自然消滅してしまったことを後悔する話もよくあります。
なかなか素直になれないのはなぜ?
本当はこうして欲しいのに、こうしたいのにという持ちを抑えるとジレンマが起きます。不思議なことに、多くの人はそのジレンマは否定せず、素直な気持ちを否定するのです。まるで素直であることが愚かなことのようです。
素直な気持ちを表に出すことさえも間違いだ、と考える人もいます。「寂しい顔をされる方の気持ちを考えなさい!」だなんて、自分の感情を押し殺してでも相手の感情を優先するのが正しいとでもいうかのような考えもあるくらいなのです。
犬や猫は飼い主と一緒と離れるとき、「置いていかないで!」と遠慮なく寂しい顔をしたり声を出したりします。
そう、素直になれないのは動物にはない、人間特有の不思議な「現象」なのです。
スピリチュアリズム思想「シルバーバーチ霊訓」で考える
性格や思考という括りでは理解出来ない、人間特有の不思議なジレンマをスピリチュアリズムの思想を使って分析していきます。
スピリチュアリズムの世界では人間の心を、「地上人(私たち)は、霊界から与えられたインスピレーション(天来の着想・ひらめき)に、意味のない知識を人工的に勝手に付け加えている」と表現しています。
この考えを表しているのは「シルバーバーチ霊訓」というスピリチュアル思想です。地上に住む私たちに対し、霊媒師を通じ高級霊からのメッセージを伝えることで、地上人に霊的成長の教育を施そうという思想です。
純粋な気持ち、困難・障害に負けない気持ちを持ち続けたくても、日常生活の雑事に紛れてしまいそんな気持ちを忘れてしまいがちです。地上に肉体を持つ限り避けられない、その葛藤に対する言葉が「シルバーバーチ霊訓」にはこめられています。※シルバーバーチ:モーリス・バーバネルが霊媒となりそのメッセージを伝えたとされる霊の名前
「シルバーバーチの零訓」では
あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。
というものがあります。素直な気持ちを否定するという不思議な人間の感情について、ズバリ!「最低の形」と表現しています。
「スピリチュアルリズム」の考え方
「霊主肉従」と「肉主霊従」というそれぞれ対義語の関係をもつ言葉です。
魂が主か、肉体が主かを表しているのですが、スピリチュアリズムでは魂が主となります。素直でない肉体が、鎖や重石となって魂の感性を封じ込めてしまうというわけです。肉体が素直でさえいれば、魂での愛が得られるという考え方の極論です。
「本来人間は素直な生き物であったのに、自分には不要な情報まで自ら集めて取り込み、自分に起ってもいない未来を想像して、起りもしない事象への準備行動をし、本当に必要な行動に関しては制限してしまっている」と言い換えられます。
肉体を素直に使いましょう!
このように書くと、肉欲とかセックスを想像してしまいますがここではすこし違う意味であえてスピリチュアリズムで使用した、「肉体」という言葉を用いました。素直に肉体を使うと言われても、いったいなにをどうしたらいいのか分かりませんよね。
ここで、マザーテレサの名言をいくつか挙げてみます。マザーテレサは、貧しい人たちに無償の愛を注いだ偉人です。
- 「世界平和は微笑みから始まります。」
- 「人間のほほえみ、人間のふれあいを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です。」
- 「一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです。」
どの言葉にも「微笑み」という言葉が使われています。微笑むことは肉体なくしては出来ないことですよね。微笑む顔は、親密感を表し、相手を受け入れ、許しているという、肉体上に現れた魂の姿です。
愛にもいろいろ 量より質!
学校の先生と生徒の間には「師弟愛」があります。教師の仕事は勉強を教えることですが、生徒それぞれの進路を考えて指導を行います。親と子の「親子愛」・「家族愛」親は子どもに見返りは求めません。ただわが子が健康で幸せになってくれたらいいと願うだけです。マザーテレサは「博愛」です。博愛は万人への、ひろく平等な愛です。
それらと異性間での愛はまた異なります。もともとはなんの利害関係もない他人なのです。それが発展して恋人関係に至る時、独特の本能によって完成した摂理と、そして独特の感情を伴います。それがもっと発展して恋から愛に変わります。
愛の経験値とは
愛を語るのに、これまでの経験人数が多いから自分は愛情が深いのだ、という人もいますが、肉食系女子であろうと草食系女子であろうと、経験人数に適度な数やノルマがあるわけでもありませんし、また量で計れるものではありません。要はお互いにどれだけ信頼し・尊敬できたかの、深さで計れるものなのです。
最初にあげたように、愛を与えてくれる相手を理解していなければ、いつまでもその愛を理解することが出来ません。たくさんの人と付き合えば、多くの愛を得られたように思いますが、同時に「別れの数」も増えているのです。別れは、次に出会う愛には不要な情報までも残して去っていくことを、すでにあなたは知っているはずです。
まとめ
いかがでしたか?
真実の愛は、一方的に与えるものでも、ただ与えられるのを待つものでもありません。
愛は永遠のテーマと言われる、人類に与えられた課題なのです。愛し・愛される技術は簡単に習得できるものではありません。
何かを目指す時、たくさんの課題をフルスピードでこなしていくよりも、毎日丁寧にノートを作り、それを見直し、出された課題に対して日々鍛錬を重ねていく。途中で放り出さない限りいつかその道のプロフェッショナルに必ずなれるのです。
愛する人に対しての「プロフェッショナル」を目指すこと、それが真実の愛かもしれません。
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